明確ではありませんが、現在の杉並区の地域は奈良時代には武蔵国多下郡、平安時代には多摩郡海田郷に属していたと言われています。
宝徳3年(1451年)「上杉家文書」に、和田、堀之内、泉(今の和泉)の3つの村が武蔵国中野郷に所属していると記されています。
また、貞治元年 (1362年)12月17日付の「武蔵国願文」では大宮八幡宮も中野郷にあったことを示唆する箇所があり、永禄2年(1559年)の「小田原衆所領役帳」では高井堂(今の高井戸)、永福寺(今の永福町)の2つの村が中野郷に所属していたと推測できる箇所がある事などから平安時代までには、
和田、阿佐谷、和泉、堀之内、永福寺、高井戸村がそれぞれ成立していた事になります。
現在の杉並区の地域は江戸時代におよそ20村に及ぶ大きな集落となっていました。
江戸時代、江戸日本橋を起点にして5つの街道を道幅5間にして宿場制度を設けましたが、甲州街道はその街道の一つで、甲州街道沿いには上高井戸宿、下高井戸宿と両方あわせて普通旅館と飲食業兼の旅館が24軒ありました。
しかし当時の甲州街道は交通量も少なく宿の設備も劣っていたと言われます。
一方、青梅街道は関所が無かった上に、江戸-甲州間を甲州街道を利用するのに比べ8キロも短縮できる事などから別名「甲州裏路」と言われ、庶民的な街道と呼ばれていました。
五代将軍徳川綱吉の時代には、中野から天沼にかけての約29万坪に「お犬様」の犬小屋が作られ、約10万頭の犬が養われていました。
明治16年(1883年)頃の人口は、甲州街道、青梅街道沿いに集中していました。
府中町、調布町、田無町、石灰岩を産する青梅町など、特に甲州街道の重要な宿場にして織物の町だった八王子の人口は二万人足らずだったと言われています。
私鉄の甲武鉄道は甲州街道沿いに鉄道を敷設する事を計画しましたが、地元住民から宿場の客が減り、桑が枯れるという理由で強く反対され、青梅街道沿いに計画変更しましたが、この計画も同じ理由で反対された結果、中野・立川間を24キロにも及ぶ長い直線区間とする現在の路線になりました。
明治22年(1889年)4月1日、新宿-立川間が開通し、新宿・中野・境(今の武蔵境駅)・立川の四駅が開業しました。
四ヶ月後の8月11日には新宿-八王子間が開通し、国分寺・八王子の二駅が開業しました。
中野駅と境駅の中間にある下荻窪村に荻窪駅が開業されたのは、二年後の明治24年(1891年)12月でした。
当時、街道から離れていた中野・立川間は広い武蔵野の原野と林と畑ばかりが続く寒村地帯で、荻窪駅の一日の乗降客は三百人でした。
畑の中の住宅地は人家がまばらで、人通りの少ない道には草が生い茂り、街路灯は少なくて月明りが頼りだったと言われます。
武蔵野台地の上、東京23区の西端に位置し、23区中8番目の広さを持つ杉並区は東京の発展とともに、比較的自然に恵まれた住宅都市としての性格をもちながら成長してきました。
人口は昭和52年をピークに横ばい状態でありましたが、現在はわずかに減少の兆しを見せています。
自然豊かな住環境と、商業・産業・文化が調和し、区民の多様な暮らしに対応した個性と魅力ある都市をめざしています。
近年はアニメ産業の集積も多く世界からの注目も高まってきています。